ガラスの向こう
途中、画面が勝手に進む場面があります。
第一章 佐伯(内科)
北関東の中核都市にある市立総合病院は、築三十年の本館に、精神科病棟だけが妙に新しい別棟としてくっついている。渡り廊下の窓から見えるその棟は、夜になると上階の閉鎖病棟だけが白く光って、水槽のように見えた。
毎週木曜の朝八時、内科と精神科の合同カンファレンスがある。精神科病棟に入院中の患者の身体合併症を、内科と共有するための会だ。といっても、実態はただの儀式だった。精神科医が口頭で数人の患者をざっと紹介し、最後に決まって「詳細は後ほど正式な依頼文でお送りします」と言う。内科の医師たちはそれを合図に、ほとんど聞かずにスマートフォンの病棟コールを確認する。依頼文が届けば、そこで初めて真面目に読む。届かなければ、その患者のことは誰の記憶にも残らない。それで十年、困ったことは一度もなかった。
四月に赴任してきた久我先生は、そんなカンファでも律儀だった。三十代半ば、細身で、声が低く、話す前に必ず一拍置く。内科の若手にも敬語を崩さず、廊下ですれ違うと立ち止まって会釈する。依頼文は丁寧で、検査値は単位まで揃えてある。「今度の精神科、当たりだな」と部長は言った。佐伯も同感だった。
医局の給湯室で一緒になったとき、佐伯は通勤のことを聞いた。久我先生の車はいつも、職員駐車場の一番奥に停まっている。
「片道一時間ちょっとかかるんです。妻の実家の近くに家を建ててしまったので」先生は少し照れたように笑った。「娘が小学三年生で、転校させたくなくて。夜は遅くなっても、必ず帰るようにしてるんです。顔を見ないと眠れなくて」
左手の薬指に、細い銀の指輪が光っていた。いい人なんだな、と佐伯は思った。
ただ一つだけ、気になることがあった。
久我先生の依頼文の末尾には、毎回、本題とは関係のない一行が付いている。
なお、本人の昨夜の睡眠は四時間十二分でした。
四時間十二分。病棟の睡眠チェックは二時間ごとの巡視で、分単位の記録など取りようがない。几帳面な人なのだろう、と佐伯は思った。思うことにした。
第二章 三浦(閉鎖病棟)
閉鎖病棟のナースステーションは、三方がガラスで囲まれている。ガラスの向こうがデイルームと病室、さらに奥に保護室が二つ。こちら側には電子カルテと薬品庫と、職員だけが使う鍵掛け。ガラス一枚で世界が分かれている。三浦は看護師になって六年、その一枚に何度も守られてきた。夜中に患者がガラスを叩いても、叫んでも、こちら側にいれば大丈夫。それがこの仕事を続けられる理由の一つだった。
久我先生は、そのガラスの向こう側に、平気で長くいる人だった。デイルームの床に患者と並んで座り、同じ話を三十分でも聞く。夜勤明けには、コンビニの小さなチョコレートを人数分、ナースステーションの机に置いていく。「お疲れさまです。みなさんがいるから、僕は眠れるので」
一度、チョコレートの袋に小さな動物のシールが貼ってあったことがある。三浦が笑うと、先生は困ったように頭をかいた。
「娘のいたずらです。まだ幼稚園なので、なんでも貼っちゃうんですよ」
かわいいですね、と三浦は言った。そのとき、ほんの少しだけ何かが引っかかった気がしたが、それが何なのかはわからなかった。
「今度の先生、当たりかも」
その夜、三浦はアパートで悠真にそう話した。悠真は湯を沸かしながら笑った。「前の先生、ひどかったもんな」。ベランダの外で電車が通り過ぎる。病院から車で二十分。ここにはガラスも鍵もいらない。三浦はソファに沈んで、久しぶりにぐっすり眠った。
第三章 佐伯
六月の木曜日、カンファで久我先生が言った。
「次に、七十二歳男性のMさんです。三日前から微熱があり、右下肺で軽度の副雑音を聴取しています。誤嚥性肺炎を疑っていますが、ご本人は『肺の中に誰かが住んでいる』とおっしゃるので、そこも含めてご相談したいです。詳細は後ほど正式な依頼文でお送りします」
何人かが小さく笑った。佐伯も笑いかけて、止まった。
聞き覚えがある。
一言一句、同じだった。先週も、まったく同じ患者を、まったく同じ順番で、同じ冗談まで含めて、久我先生は話していた。「誰かが住んでいる」の前に一拍置いて、少しだけ口角を上げる、その間の取り方まで同じだった。
あとで依頼文を待った。来なかった。先週の分も、来ていなかった。
夕方、佐伯は精神科病棟の入院患者一覧を開いた。七十二歳の男性はいない。イニシャルがMの男性もいない。過去一年に遡っても、該当者はいなかった。
カンファで、誰も気づかなかった。気づくはずがない。誰も聞いていないのだから。
胸の奥が冷えたまま、佐伯は久我先生が担当している実在の患者のカルテを一つ開いた。三週間分の経過記録を、上からスクロールしていく。
最初は普通だった。
表情穏やか。幻聴の訴えは減少傾向。食事摂取良好。
十日前。
表情穏やか。幻聴は減少。ただし病棟内で誰かが考えを外に流している可能性あり。要観察。
五日前。
本人ではない。本人ではない。流出源は南側。ナースステーションのガラスは思考を遮断しないことが判明。三浦の考えが廊下に漏れている。睡眠四時間十二分。
昨日。
電波残量良好 三浦 三浦 南側 流さないで 流さないで 流さないで 内服継続
最後の「内服継続」だけが、何事もなかったように正しい位置に、正しい書式で書かれていた。それが一番怖かった。
第四章 三浦
夜勤の午前一時半。病棟は静かで、保護室のモニターだけが青白い。
この数週間、小さなことが続いていた。チョコレートが三浦の席の前にだけ二つ置いてある。申し送りの最中、先生がガラスの向こうからこちらを見ている。目が合うと会釈する。いつも、会釈する。
休憩時間、三浦はナースステーションの隅にある一台の端末の前に座った。病棟で唯一、院外のインターネットにつながっている、薬剤情報を調べるためのパソコンだ。なぜそうしようと思ったのか、自分でもよくわからなかった。ただ、前の病院の話を、先生が一度もしたことがないのに気づいたのだ。
名前を打ち込んだ。久我。下の名前。精神科。
一件目は、学会の古い抄録だった。二件目も。三件目で、指が止まった。
地方紙の小さな記事だった。三年前の日付。県名は、ここから三つ離れた県。
ショッピングモールで女性に暴行 医師の男を逮捕
フードコートで、食事中の二十代の女性に突然つかみかかり、顔を殴った。男は「考えを流すのをやめろ」などと意味不明な言葉を叫んでいた。男は同市内の病院に勤務する精神科医。続報は一行だけだった。検察は、精神疾患により責任能力がなかったとして不起訴処分にした。
記事の下に、SNSの投稿をまとめたページへのリンクがあった。開いてはいけない、と思いながら、開いた。
炎上していた。何百という書き込みが、スクロールしても終わらない。医者が無罪かよ。被害者が気の毒すぎる。精神科医が精神病って笑えない。そのあいだに、元同僚を名乗る匿名の書き込みが、いくつか混じっていた。
あの先生、うちでも一回入院してる。自分の病棟に
いい人だったよ。ほんとに。チョコとか配ってくれて
ずっと奥さんと娘さんの話してたよね。片道一時間かけて家族のとこに帰るって
その下の書き込みで、三浦の呼吸が止まった。
独身だよ。結婚歴もない。娘なんていない。官舎の部屋、病院の裏だったし。あの人、毎晩どこに一時間も車で行ってたんだろうね
小学三年生。幼稚園。先生が佐伯先生にどう話したかは知らない。でも、三浦が聞いた娘は、幼稚園だった。シールを貼る、小さな娘。
いない娘。
毎晩一時間、車で。
三浦のアパートは、病院から車で二十分。往復すれば四十分。少し待てば、一時間。
気配を感じて、顔を上げた。
ガラスのすぐ向こうに、人が立っていた。
「っ」
声にならない声が出た。保護室にいるはずの、入院三日目の若い男性患者だった。いつの間にか廊下に出ていたのか。ガラスに額がつきそうな距離で、まっすぐこちらを向いて、立っている。
いや、違う。
三浦を見ていない。患者の視線は、三浦の左肩の、ほんの少し上を見ていた。何かを見上げるように。怯えるように。
ナースステーションのガラスに、蛍光灯に照らされた自分が映っている。端末の画面の白い光。その後ろに、白衣があった。
振り返る前に、それが誰かわかった。
画面には、まだ記事が開いたままだった。
久我先生は何も言わなかった。画面を見ているのかどうかも、わからなかった。いつもの穏やかな顔で、少しだけ首を傾けて、三浦を見下ろしていた。
「遅くまでお疲れさまです」
低い、いつもの声だった。
「ネットの情報って、勝手に流れてきますよね。こっちが望んでいなくても」
先生は、白衣のポケットから何かを取り出して、三浦の机の上にそっと置いた。小さなチョコレートだった。袋に、動物のシールが一枚貼ってあった。
「娘からです。三浦さんに、って」
それだけ言って、先生はナースステーションを出ていった。扉の閉まる音はしなかった。ガラスの向こうでは、患者がまだ、先生が立っていた場所をじっと見上げていた。
朝、帰宅すると悠真が起きて待っていた。話しているうちに泣いていた。悠真は黙って聞いて、背中をさすって、「異動、考えてもいいんじゃない」と言った。ドアの鍵を二回確かめてから、三浦は眠った。ここなら大丈夫だ、と自分に言い聞かせながら。
第五章 佐伯
「疲れてるだけだろ」
部長は電子カルテから目を離さずに言った。「赴任して三か月だ。家族と離れて遠くから通って、精神科は人も少ない。カルテが荒れることくらいある」
「荒れてるんじゃありません。存在しない患者をカンファで二回プレゼンしてるんです」
「お前、毎回ちゃんと聞いてるのか?」
部長は笑った。冗談のつもりだったのだろう。だが、それが答えだった。誰も聞いていない場所でなら、人はどこまでも壊れていける。そして医者は病気にならないことになっている。
その日の夜、佐伯は医局の久我先生の机の前に立っていた。用事を作って来た。それ以上の理由はなかった。
机の上は空っぽだった。不自然なほど片付いていた。写真立てが一つだけあった。海辺で笑う女性と、小さな女の子。佐伯は手に取って、気づいた。写真立てを買ったときに最初から入っている、見本の写真だった。
壁は違った。
机の正面の壁一面に、付箋とコピー用紙が隙間なく貼られていた。数字の羅列。時刻。方角を示す矢印。「南」「南」「南」。どれも同じ筆跡で、端に行くほど字が小さく、最後はほとんど点の連なりになっている。中央に、閉鎖病棟の看護師勤務表が一枚貼られていた。一人の名前の欄だけが、赤いボールペンで、紙が破れるほど塗りつぶされていた。その上に、几帳面な字で一言。
「発信源」
医局を出たところで、佐伯の院内スマートフォンが鳴った。新着の対診依頼。差出人は精神科、久我。
患者氏名:三浦
年齢:二十八歳 女性
病名:思考漏洩
依頼内容:停止をお願いします。
なお、本人の昨夜の睡眠は三時間五十一分でした。
佐伯は閉鎖病棟の直通番号を押した。
第六章 三浦
土曜日の昼、家から歩いて十分のショッピングモールは家族連れで埋まっていた。悠真が列に並んでいる間、三浦はフードコートの端の席を取った。久しぶりの休日だった。木曜に内科の佐伯という医師から電話があったことは、まだ考えないようにしていた。
人混みの向こうに、白いシャツの男が立っていた。
トレーも、紙袋も、何も持っていない。フードコートの真ん中で、両腕をだらりと下げて、まっすぐこちらを見ていた。周りの人が男をよけて流れていく。川の中の杭のようだった。
久我先生だった。
片道一時間の家に、妻と娘が待っている人。そんな家は、どこにもない人。
フードコート。三年前の記事の文字が、頭の中で勝手に読み上げられた。食事中の二十代の女性に、突然。
目が合った瞬間、先生の顔が崩れた。
「止めろ!」
フードコート全体が静まり返った。
「止めろ、流すな、俺の中に流すな! 聞こえてるんだよ、全部、お前の、お前の考えが、南から、ずっと、頭の、ここに」
先生は自分のこめかみを拳で殴りながら叫んだ。近くのテーブルのラーメンを腕で払い、器が床で割れ、子どもが泣き出した。言葉はもう文になっていなかった。「三浦、南、四時間、電波、停止、停止、お願いします、停止」。誰かが警備員を呼ぶ声がした。
先生が、歩き出した。三浦のほうへ。まっすぐに、人を押しのけて。三年前と同じように。
三浦は逃げた。悠真のいる列とは反対側へ、非常口の緑のランプへ。振り返らなかった。振り返ったら、すぐ後ろにいる気がした。
夜、ドアに二重にチェーンをかけ、カーテンを閉め切った部屋で、悠真がぽつりと言った。
「そういえばさ、先週、駅前で道聞かれたんだよ。すごい感じのいい人で。この辺のアパートの場所。お前のとこと同じ名前だったから、ちょっと覚えてて」
悠真は少し考えてから、付け足した。
「娘さんが近くに住んでるって言ってたな。毎晩、顔だけ見に来るんだって」
三浦は、悠真にどんな人だったかを聞けなかった。
もう、安全な場所はどこにもなかった。
第七章 三浦、そして佐伯
月曜の夜勤は、どうしても代わりがいなかった。久我先生はモールの件のあと「体調不良」で休みになっていた。院内では誰も詳しいことを言わなかった。
午前二時十分。
ナースステーションの扉が、内側から静かに開いた。
久我先生が立っていた。白衣を着て、髪を整えて、いつもの穏やかな顔で。左手の薬指に、細い銀の指輪。
「三浦さん。ご迷惑をおかけしました」
声は落ち着いていた。モールで叫んでいた人と同じ人間には見えなかった。
「もう大丈夫です。わかったんです。流れてくるのは、遮るものがないからなんですね。だから、僕が向こう側に入ればいい」
先生はガラスの向こうを指さした。空いている二番目の保護室。
三浦が何か言う前に、先生は自分で歩いていき、保護室の重い扉を開け、中に入って、振り返って微笑んだ。
三浦は走った。扉を閉め、職員用の鍵で施錠した。手が震えて、二回鍵穴を外した。ガチャン、と重い音がした。
終わった、と思った。
覗き窓の向こうで、先生はベッドに座っていた。穏やかな顔だった。次の瞬間、立ち上がって、壁に額を打ちつけた。一回。二回。鈍い音が、防音のはずの扉越しに響いた。
「入ってくる、入ってくる、ここにも、ここにも、なんで、ガラスが、ガラスがあるのに」
そしてまた座り、穏やかな顔に戻り、覗き窓に向かって小さく会釈した。額から流れた血が、眉毛を伝って、白衣の襟に落ちていた。
先生は立ち上がり、覗き窓のガラスに、ぺたりと手のひらをつけた。赤い手形が残った。
三浦はナースステーションに戻り、当直医に電話しようとして、受話器を取ったまま固まった。
鍵掛けのフック。保護室の予備鍵が掛かっているはずの、一番右のフック。
空っぽだった。
さっき自分が使った鍵は、今、自分の手の中にある。じゃあ、予備は。いつから。誰が。
静まり返った病棟の奥で、音がした。
ガチャ。
内側から、鍵の回る音だった。
廊下の照明の下、二番目の保護室の扉が、ゆっくりと、ほんの少しだけ開いた。隙間から、血のついた指が四本、扉の縁をつかんだ。
「三浦さん」
穏やかな声だった。
「娘が、待ってるんです」
その時、病棟の入口の扉が乱暴に開いた。佐伯と、当直の警備員二人だった。佐伯は木曜から、久我先生のIDの電子カルテのログインを見張っていた。午前二時、休職中のはずの先生のIDが、閉鎖病棟の端末でログインした記録が出たのだ。
久我先生は抵抗しなかった。警備員に両腕を取られながら、ずっと三浦のほうを見て、ずっと微笑んでいた。
翌朝、先生は県外の大学病院の精神科に、医療保護入院となった。
第八章 三浦(半年後)
冬の終わりに、久我先生は復職した。
病棟の朝礼で、先生は深く頭を下げた。治療を受けていたこと。今は薬を飲んで、定期的に通院していること。迷惑をかけた人たち、特に三浦さんには、謝っても謝りきれないこと。声は落ち着いていて、言葉はすべて正しい順番で並んでいた。頬が少しふっくらしていた。薬のせいだろう、と三浦は思った。左手の指輪は、なくなっていた。
先生は前と同じように、患者の話をよく聞いた。夜勤明けのチョコレートも、また置いていくようになった。シールは、もう貼られていなかった。佐伯が言うには、カンファでのプレゼンも普通で、依頼文もちゃんと届くらしい。末尾の一行も、もうない。
春が来るころには、三浦も先生と普通に話せるようになっていた。病気だったのだ。治療を受けて、治ったのだ。看護師である自分が、それを信じなくてどうする。
三月の終わり、日勤の帰り。更衣室を出たところで、先生とすれ違った。
「お疲れさまです。今日も助かりました」
「お疲れさまでした」
先生は会釈して、二、三歩歩いてから、思い出したように振り返った。
「ああ、そうだ。悠真くんにも、よろしく伝えてください。あの時は驚かせてしまったので」
三浦は笑顔で頷いた。頷いてから、立ち止まった。
悠真の名前を、先生に話したことは一度もない。
道を聞かれたあの日、悠真は名乗っていないと言っていた。
先生は少し照れたように笑って、付け足した。
「娘も、また会いたがってるんです」
廊下の向こうで、先生はもう角を曲がっていた。その手前の窓ガラスに、一瞬だけ、先生の顔が映った。微笑んでいた。口が、小さく動いていた。
声は聞こえなかった。でも、三浦には読めてしまった。
ながさないで。
了